Georgia Bell(ジョージア・ベル)選手をご存じでしょうか?
今年のパリオリンピック女子1500mで、Faith Kipyegon(フェイス・キピエゴン)選手(1500m世界記録保持者:3’49″04)、Jessica Hull(ジェシカ・ハル)選手(1500m世界歴代5位:3’50″83、2000m世界記録保持者:5’19″70)に次ぎ、英国新記録、世界歴代12位の3’52″61の記録で銅メダルを獲得した英国の中距離選手です。
このベル選手の経歴が非常に興味深かったので紹介します。
※内容についてはAthletics Weekly 10月号のインタビュー記事と、ベル選手に関するWeb記事を元にしています。Web記事はこちら。
ベル選手小史
年 | 年齢 | 800m SB | 1500mSB | 主な戦績・所属・備考 |
---|---|---|---|---|
2008 | 15 | 2’08″81 | 4’37″45 | ◆English Schools Championships U15 800m 優勝 |
2009 | 16 | 2’09″16 | ー | |
2010 | 17 | 2’12″20 | ー | |
2011 | 18 | ー | 4’55″3 | |
2012 | 19 | 2’20″52 | 4’54″40 | ◇バーミンガム大学(2012.9-2015.8) – 学士(地理学) |
2013 | 20 | ー | ー | |
2014 | 21 | 2’03″38 | 4’18″75 | ◆現コーチのTrevor Painter氏と出会い記録を伸ばす |
2015 | 22 | 2’07″12 | 4’16″96 | ◇カリフォルニア大学バークレー校 大学院(2015.9-2017.8) – 修士(地理学) – 国際奨学生選手として在籍 ◆コーチを変更 |
2016 | 23 | 2’09″21 | 4’18″89 | ◆トレーニングの一貫性を欠き、度重なる故障に苦しむ |
2017 | 24 | 2’10″11 | 4’25″58 | |
2018 | 25 | 2’18″04 | ー | ◆競技とは距離を置く ◇サイバーセキュリティ関連企業3社を渡り歩き、 会計担当としてフルタイムで働く(〜2024.9) |
2019 | 26 | 2’17″7 | ー | |
2020 | 27 | ー | ー | |
2021 | 28 | ー | 4’48″18 | ◆東京オリンピックを機に再度競技の道を志す |
2022 | 29 | ー | 4’42″93 | ◆Bushy parkrun (5km) で16’14” (3月19日) |
2023 | 30 | ー | 4’06″20 | ◆Trevor Painter氏に再度コーチングを依頼する ◆2023 World Triathlon Duathlon Championships デュアスロン女子AG30-34の部で優勝 |
2024 | 31 | 1’56″28 | 3’52″61 | ◆Nikeとプロ契約(4月〜) ◆M11 Track Club に加入 ◆サバティカル制度で所属企業を休職(4月〜9月) →その後プロに完全転向のため退職 ◆パリオリンピック女子1500m銅メダル (3’52″61=英国新) |
現在31歳のベル選手は長らく第一線で活躍していると思いきや、2023-24年のたった1年で1500mの自己記録を25秒近く短縮し、オリンピック銅メダル+英国新記録を達成した選手です。
競技を休止していた期間があったとはいえ、いくらなんでも劇的すぎませんか???
ジュニアの頃から辿っていくと、当時14歳のEnglish Schools ChampionshipsではU15の800mで優勝しており、この年の自己記録は2’08″81と、ポテンシャルのあるアスリートでした。
ただ、その後自己記録を更新したのはバーミンガム大学在籍時の2014年(当時20歳)でした。
契機となったのは、現在のベル選手のコーチであるTrevor Painter(トレヴァー・ペインター)氏との出会いです。
この2014-15年には英国選手権出場や英国学生選手権(BUCS Championships)やU23英国選手権での上位入賞など好成績を納め、2015年9月から国際奨学生選手(International Scholarship Athlete)としてカリフォルニア大学バークレー校の大学院へ進学しました。2015年の記事では、UCLAで競技を継続することに関して、“I definitely want to dedicate the next chapter of my life to athletics.”「私の人生の次の章は、間違いなく陸上競技に捧げたい。」と述べているように、覚悟を持ってアメリカへ渡ったのだと思います。
しかし、拠点が変わったことによりコーチやトレーニングの方針も変わり、ベル選手曰く、「従来より大幅にマイレージが増えたこと(週50マイル以上)」「トレーニングの一貫性が欠落したこと」で常に故障を抱えている状態になり、自己記録を更新することなく大学院での競技生活を終えています。
この長引く故障がベル選手の競技への情熱を失わせてしまい、大学院修了後は英国に戻りサイバーセキュリティ関連企業でフルタイムで働き、その後に訪れる新型コロナウイルスのパンデミックも相まって、3年以上競技から離れてしまいます。
再度競技への情熱が湧いたのはコロナ禍で行われた東京オリンピックを観てからでした。
ランだけでなくバイクトレーニングも積極的に取り入れ、2022年3月のBushy parkrun(5km)を16’14”のタイムで走り、この時に「陸上競技にやり残したことがある」と感じたそうです。
この年には1マイルを4’33″66で走るまでに状態を上げています。
翌2023年の初めにはバーミンガム大学時代のコーチであるペインター氏に連絡をとり、“If I could do that on my own what could we do if we work together?”「これが私1人でできたなら、一緒なら何ができるだろう?」と、もう一度コーチングをお願いしたそうです。
この年には1500mで4’06″20まで自己記録を伸ばしています。
さらに驚くべきことに、ベル選手は2023年の世界トライアスロン・デュアスロン選手権の女子デュアスロン30-34歳の部(ラン9.8km-バイク-39.6km-ラン5.2km)で優勝しています。
エリートの部ではないとはいえ、フルタイムで働きながら、デュアスロンという半分専門外の国際大会で優勝するところまでパフォーマンスレベルを上げている、ということは元々のポテンシャルに加え、相当な努力と効率の良さが為せた業だと想像できます。
The race that changed Georgia Bell’s life – ベル選手の人生を変えたレース –
そのレースとはなんでしょう?
世間一般的に見れば、パリオリンピック女子1500m決勝で銅メダルを獲得したレースでしょう。
しかし、ベル選手はオリンピックのレースは確かに大きな出来事だったとしながらも、“But, for me, the race that I think was the most crucial, and one I’m the most proud of, was that first race in January in Dortmund.「でも、私にとって最も重要で、最も誇りに思うレースは、1月のドルトムント(ドイツ)での最初のレースです。」としています。
このベル選手の言葉が意味するところは、少し陸上競技に通じている人であればわかると思います。
オリンピックイヤーである2024年のインドアシーズンが始まった1月時点で、ベル選手は全くと言っていいほど「無名」に等しい選手でした。
その選手が、その夏に行われるオリンピックの出場権を得るということは、どれだけ実力があったとしても難しいことは想像に易いと思います。
そう、まずワールドランキングを上げるために必要なポイントを稼ぐ試合に出場できないのです。
ペインターコーチも、シーズン当初にこのことを非常に危惧していたようです。
実際に、AR(代理人)がいない当時のベル選手は自身で出場交渉を試みますが、基本的にどのカテゴリーミーティングにも出場枠をもらえません。
そんな中、奇跡的に出場予定の選手がキャンセルした枠が回ってきた大会が、1月20日にドイツ・ドルトムントで開催されたSparkassen Indoor Meeting Dortmund(カテゴリー:C)です。
この試合で4’06″50の世界室内選手権の標準記録突破を狙ったベル選手は、それを大きく上回る4’03″54で1位となります。
この試合をきっかけとするインドアシーズンの活躍があり、ナイキとのプロ契約、AR獲得、所属企業から4月から9月のサバティカルを認めてもらうことに至ります。
ここからベル選手の怒涛も怒涛な快進撃が始まります。
少々長くなってしまいますが、以下に2024年の主要記録をまとめました。
長くならざるを得ないほど、多くの大会で結果を残し続けています。
この年、各選手権の予選も含めると、出場レース数は27レース(インドア10、アウトドア17)、自己記録更新は全種目を通して9回という、このレベルの選手の1年間のとは思えない数字です。
国内選手権もインドア、アウトドア共に優勝しています。
ちなみに、この年のアウトドアの英国選手権女子1500m1から5位は全員30歳前後の選手です。
Laura Muir(ローラ・ミュア)選手をはじめ、長らく第一線で活躍してきた選手にとっては、衝撃的だったのではないでしょうか?
また、ダイヤモンドリーグファイナルに2種目出場しているのは、ベル選手と同じくイギリスのDaryll Neita(ダリル・ニータ)選手の2人だけです。
少し脱線しますが、ファイナルに2種目出場で印象的なのは2023年のJakob Ingebrigtsen(ヤコブ・インゲブリクトセン)選手の1マイルと3000mの2冠ですね。2日連続でギリギリで競り勝ったあのパフォーマンスは圧巻でした。とりあえずダイジェスト動画を貼っておきます。笑
ベル選手のトレーニング
Athletics Weeklyには、”How they train: (選手名)” というコーナーがあり、エリート選手の普段のトレーニングを紹介してくれます。
世界室内で4位になった後にベル選手の回が組まれていたので、そこで紹介された週のトレーニング例を紹介します(一部抜粋)。
月曜日:(午前)出勤前に6~7マイルのイージーラン、(午後)インターバルを含むZwift1での1時間の室内バイク・ワークアウト
火曜日:ロード・セッション-ウォームアップ/クールダウンを含めて合計10マイル前後(例:(5分-4分-3分-2分)×3)
水曜日:休息日
木曜日:(午前)出勤前に単独トラック・セッション(例:1200mタイムトライアル、その後300m+200m)、(午後)Zwiftレース2
金曜日:イージー・ラン(30分前後もしくは5マイル)と自宅で軽いウェイト
土曜日:ハードなトラック・ワークアウト(例:タイムトライアル、300m、200m)※木曜日のセッションよりも激しい。
日曜日:バイク100km(ロードで3~4時間)
- インドアサイクリングを楽しむためのアプリケーション。センサーからスピードやケイデンスのデータをリアルタイムで取り出し、そのデータをバーチャルワールド内の自分のアバターのペダル出力に反映する。公式サイトはこちら。 ↩︎
- Wahoo Le Col elite racing teamとのバーチャルレース。ベル選手曰く「すごく楽しいし、体力的にもハードなんだ。Zwiftのレース後の気分は、ランニングのレース後よりも辛い。極限まで自分を追い込んでいるけど、違う意味で競争的だから、とても楽しいわ。」とのこと。 ↩︎
大まかな週のトレーニング量は100マイル(約160km)のバイクトレーニングと25~30マイル(約40~50km)のラントレーニングです。これはアメリカ拠点(大学院)時代に週50マイルのラントレーニングで常に怪我をしていたため、またその経験からランニングで週30マイルを超えるのは不安があるためだそうです。この当時は現状で満足しているそうですが、将来的にマイレージを増やす可能性もあると語っているので、プロ転向後は少し変わっているかもしれません。
また、M11 Track Clubというプロチームに所属しています。
前述のペインターコーチとその奥さんであるJenny Meadow(ジェニー・メドウズ)氏(2009ベルリン世界選手権女子800m銅メダリスト)がコーチングする、2024年に新しく発足したチームです。
パリオリンピック女子800m金メダリストのKeely Hodgkinson(キーリー・ホジキンソン)選手や800mで1’43″48の自己記録を持つBenjamin Robert(ベンジャミン・ロバート)選手など、中距離を中心に多くのエリート選手が所属しています。今後注目のチームになりそうです。
まとめ
様々な要因があるにせよ、1年でここまで劇的な活躍を果たした選手は過去にも先にもいないように思います。
「ベル選手から学ぶべきこと」、というテーマで書いていたつもりでしたが、色々とイレギュラーすぎて一般化するのが難しくなってしまいました(笑)。
事例としては、
- トレーニング量を確保するのにランにこだわる必要はない。バイクでも代替可能であり、故障のリスクが軽減される。
- 数年のブランクがあっても、競技復帰できる可能性はある。むしろ十分な休養と捉えて、身体的、精神的にもフレッシュな状態を取り戻すことができるかもしれない。
- 自分に合ったコーチは競技で成功する上で重要なピースになり得る。
と言ったところでしょうか。
そんなベル選手は今年のBritain’s Breakthrough Athlete of 2024に選ばれました。
ベル選手を差し置いてこの賞にふさわしい人はいないでしょう。
コメント